ひとり読書会~アウラってなんですか

ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」と関連書を独学でちまちま読んでいくブログです。

パリー19世紀の首都(1)

「パリー19世紀の首都」にはドイツ語版と、のちにそれをフランス語に訳しつつ一部書き加えたものがあります。大きな違いは「序章」と「結論」がフランス語草稿の方にだけみられること。ブランキの著書「天体による永遠」を踏まえた視点が加わっています。

 その「序章」の部分から読み進めてみます。

 

引用ここから======

「歴史はヤヌスと同じであり、二つの顔を持つ。過去を見ていても、現在を見ていても、歴史は同じものを見ている。」マクシム・デュ・カン『パリ』Ⅵ、315ページ

 本書が対象にするのは、歴史の本質をつかむためにはヘロドトスと朝の新聞を比べさえすればよい、という言い方でショーペンハウアーが表現してみせた一つの錯覚である。これは、前世紀が抱いていた歴史観を特徴づける眩暈のような感覚の表現である。この歴史観は、物のかたちに凝固した事実の無限の連鎖として世界の経過を構成する視点に照応する。この歴史観が固有に残すものは《文明史》と呼ばれ、人類の生活形態や創造を一つ一つ目録に収めてゆく。

引用ここまで======

 

■「ヘロドトスと朝の新聞」のくだりですが、まずここで衝撃の事実を知らされまして、訳注によれば「ショーペンハウアーにこのような表現はない」とのこと。え、それは、ベンヤミンが思い違いをしていたということなの…そうなの?正しい出典はわかりませんでした。

ヘロドトスとはその主著「歴史」(世界史の授業で習った記憶しかない)のことだと思うのですが、歴史書と朝刊との共通点/相違点についてはちょっとニュアンスがわからなくて保留。

 

■「前世紀が抱いていた歴史観」とは、おそらく19世紀までの歴史認識(とくに文明史の)が「歴史とは、無数のイベント(出来事・事実)の集積であり、そのイベントは過去の事物(博物館の収蔵品)の中に封印されている」というもので、そのような考え方は錯覚である、ということでしょうか。

錯覚といわれても何が…と疑問に思うところですが、ここでベンヤミンが下敷きにしてしているのは先にマルクスが「資本論」で論じた「商品の物神性」という概念です(私読んでないけど。)。

 

■商品の物神性とは…「商品経済において、『社会的諸関係』が物として現れる転倒性」。とのこと。物神性(ぶっしんせい)とは - コトバンク

たとえば商品を作ったら、自分の労働に見合うように価格を決めるのがそもそもの考え方です。しかし店頭に来る消費者は値札だけを見るので、それが「売り手が納得いくように決められているだけ」とは意識せず、商品そのものに絶対的な価値が定まっているかのように思ってしまう。また逆に「コーラって高くない?原価10円くらいなんでしょ?」と、自分の価値基準で品定めできるかのように思ってしまう。(原価という発想がすでに物神性を信じているのかもしれないですね。プラスチックやさとうきびに固定のレートがあるわけではなく、ゼロから生み出されたものをそれぞれの生産者が「この価格なら譲ってもいい」と決めているだけなのに)

みたいな話でしょうか。

これを歴史認識にあてはめると、「文明史において、文化的連関が物(史料)として現れる転倒性」、博物館に並んでいる収蔵品はただの成果物であり、知るべきなのは歴史そのものの流れや連関であるのに、いつしか物に絶対的な価値があるかのような意識になり、その背景にある文化的脈絡を理解できずに終わってしまうジレンマがある。ということに。ふうん。(ピンと来ない)

 

■なんとなく博物館というか蒐集趣味(多分そのイメージが行きつく先はパサージュや万国博)に対する懐疑的なまなざしを感じます。この時代に博物館にかかわる動きが何かあったんですかね…

ちなみに、公衆に一般公開された常設の博物館として最古のものは、フランス革命のさなかに開設されたパリの「国立自然史博物館」だそう。(※情報元はwikiです…インターネットの力を信じています 博物館 - Wikipedia

 

いろいろ調べるべき点を残しつつ、次に進みます。