ひとり読書会~アウラってなんですか

ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」と関連書を独学でちまちま読んでいくブログです。

パリー19世紀の首都(2)

続き。

引用ここから=========

そのようにして、文明の宝物殿の中に収蔵された財宝の数々は、以後はいつまでも身元を保証されたものになる。この歴史観では、これらの財宝は、存在していることだけでなく、継承されてゆくことも社会の恒常的な努力のお陰であるという事実を軽視しているが、この努力によってこれらの財宝はさらに奇妙に変質するのである。

引用ここまで=========

 

■前回読んだ数行はざっくり言うと「経済学でいうところの物神性みたいな現象が歴史認識にもあって、史料(や芸術作品)というモノばかりに目が行き過ぎてその背景について考えることを忘れがちじゃないですか?」という感じだった(と思う)のですが、そのことがなぜ問題であるのかをここで指摘しています。

 

■最初の一文は前回の「(文明史は人間の生活形態や創造を)目録に収めてゆく」を引き継いで、それら(生活形態・創造、ひいては芸術作品)が歴史的に重要と認識される過程を、「文明」という大きな宝物殿に収蔵されて目録に載るようなもの、と述べています。重要な事物をリストアップすることで歴史が構成できるという考え方、いけないのかなぁ…?

 

■「この歴史観では~変質するのである」の部分、おそらく訳者の頭の回転が速すぎるせいでわかりにくいのですが、多分横文字によくある倒置的なやつで、日本語では普通こう書かれるんじゃないでしょうか。(わたしドイツ語スカだから英語のイメージで考えたけど…)

「この歴史観において軽視されていることがある。それは『これらの財宝が存在していることも、さらには継承されていくことも、社会の恒常的な努力のお陰である』という事実だ。この努力によってこれらの財宝はさらに奇妙に変質する。」

 

■要するに、「私たちは歴史を考えるうえで物体(史料・芸術品)を第一義的に扱ってしまいがちだが、その物体がいまここに存在しているのも、そしてこの先存在していくのも、社会がそれを受け入れ、意味を与えてきたからだ。社会が注目し続けることによってモノはモノでいられるし、さらに新たな意味合いを付与されていくという側面もある。それを忘れて『モノを並べれば歴史が構成できる』と思い込むことは幻覚にすぎない(し、構成された歴史観は人間やその社会の主観にすぎず、間違っているかもしれないのだ)」という理解でよいでしょうか。

 

この辺りの言葉の端々(「奇妙に変質」とか)になんとなくアウラ的なものの影を感じつつ、次に進みます。