ひとり読書会~アウラってなんですか

ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」と関連書を独学でちまちま読んでいくブログです。

パリー19世紀の首都(3)

引用ここから=====

拙著の調査は、文明のこの物体化的(シヨジスト)な表象によって、われわれが前世紀から受け継いだ新しい生活の諸形態や経済的技術的基盤に立つ新しい創造が、いかにして一つのファンタスマゴリーに突入するのであるかを示したいのである。

引用ここまで=====

 

■ここで「ファンタスマゴリー」というキーワードが登場します。幽霊を題材にした幻燈ショーのことで、18世紀末にフランスで流行したとか。※

なので、意味としては多分「創り出された幻影」くらいの理解でよいのですが、ここで「前世紀が抱いていた歴史観」を霊感ショーになぞらえたことにはちょっと注目したいと思います。 

参照元Wikiです…Wiki由来の情報については必ず正直に言うようにしています…ファンタスマゴリー - Wikipedia

■まず、ファンタスマゴリーは映画の前身であり、ベンヤミンは映画を大きなテーマとして取り上げていること。(ベンヤミンが映画について論じることが、ファンタスマゴリーにも当てはまる可能性が高いこと)

それから、ファンタスマゴリーはのちに流行する心霊写真との共通点も多く、ベンヤミンの「オリジナル(真実)に対してコピー・複製品とは何であるのか」というこれも主要なテーマを考える上で重要であること。

とくに後者について、写真に映っているものが真実だと思い込む(思い込みたい)心理は、先に述べられた「(文明の)物体化的な表象」と近いものがあります。今でこそ写真は「フォトショじゃん」「コラでしょ」という言葉が示すように「編集可能なもの」という認識を誰もが持っていますが、当時は「証拠写真がある」といわれればもうそれが絶対的な真実でありました。(というか私が育った80~90年代くらいまではそうでしたよ…)

以上のようなニュアンスを踏まえつつ、「新しい創造がファンタスマゴリーに突入する」ということの意味を考えてみます。

 

引用ここから=====

これらの創造はこの「天啓/照明(イリユミナシオン)」をイデオロギー的置換によって理論的に受けるだけではなく、感覚的現前の直接性においてこそ受けるのである。これらの創造は、ファンタスマゴリーとして顕在化するのである。鉄骨建築の最初の活用である「パサージュ」はそのようにあらわれるし、娯楽産業との結びつきがはっきり在り方を語る万国博覧会もそのようにあらわれる。

引用ここまで=====

 

■イリユミナシオン=Illumination(←原文読んでないので不明ですが多分)が「天啓/照明」と訳されていて、「照明」の方は幻燈のイメージに対応しているのでしょうが「天啓」の方は背景がわからず読み飛ばしております…

■新しい創造・文化は旧来の文化的な文脈に置き換えられることで理論的に受容される(イデオロギー的置換)が、それ以上に、新しいものが実際に目の前にやってきたことでわれわれの感覚に働きかけ、そこにファンタスマゴリー=幻想が発生する(感覚的現前の直接性)、という感じでしょうか。

■たぶん「感覚に働きかける」からもう一歩進んで「新しい創造が現前することによってわれわれの感覚を刷新する」くらい言ってもいいような気がしますが、特に書いてないのでメモにとどめます。

 

引用ここから=====

同じ類の現象の内に、市場のファンタスマゴリーに身を任せる遊歩者(フラヌール)の体験が挙げられる。人間たちが類型的な様相のもとでしかあらわれない、市場のこういったファンタスマゴリーに対応して、住んでいる部屋に、自らの個人的私生活の跡をぜひ残したいという人間の強烈な傾向によってつくられる室内のファンタスマゴリーがある。

引用ここまで=====

■市場(=類型的な様相)と室内(=個人的私生活の跡)を対比させていますが、ここは後の章で具体例がたくさん出てくるのでさらっと流しておきます。