ひとり読書会~アウラってなんですか

ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」と関連書を独学でちまちま読んでいくブログです。

パリー19世紀の首都(3)

引用ここから========

文明そのもののファンタスマゴリーはといえば、オースマンという代表選手を得て、パリの変貌にその顕在化した表現を見せたのである。――しかしながら、商品生産的世界がそうしてかもし出すその輝きやその豪華さにしても、その社会の安全という錯覚にしても、脅威から守られてはいない。

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■文明そのものがもたらした幻燈ショーの最も象徴的でわかりやすい例として、ここでオースマンによるパリ改造計画を挙げています。パリに美観と交通の便、整備されたインフラをもたらした反面、文化的遺産を破壊し革命派を圧する政府の独善にすぎないと賛否両論のあった改造計画。店頭に商品があふれるパサージュの輝きや豪華さが安定を保証されたものではないのと同様、“美しく安全に改造されたパリ”も幻覚にすぎず、崩壊する危険をはらんでいる、とのこと。

 

引用ここから========

同じ頃に、その社会にもっとも恐れられた敵ブランキ〔19世紀仏の革命家〕は、最後の著書でこのファンタスマゴリーの恐怖の顔つきを社会に明示した。書中、人間は劫罰に処せられているかのように見える。人類が新しいものとして期待できるすべてのものは、常に存在した現実であったことがあばかれる。さらにその新しいものは、新しい流行が社会を刷新できないのと同様、人類に対して解放に向かう解決策を与えることができない。ブランキの天体的思索は、ファンタスマゴリーが一つの場を持つかぎり、人類は神話的不安にさいなまれるという教えを含んでいる。

引用ここまで========

■序章の草稿はここで終わっています。最後に語られるのは、そのペシミスティックな思想でベンヤミンに衝撃を与えたというブランキの天体的思索について。(私読んでないけど…)

■“美しく安全なパリ”の幻覚を破壊するいちばんの脅威といえば反政府革命主義者であったわけですが、その頭目ブランキは著書「天体による永遠」でこの幻覚(まとめると「モノを崇拝し、新しい文明や文化が発生しても旧来の感覚で消化することしかできないのに、さも自分たちが新しい世界を知ったかのように振舞う、幻燈ショーに見入る観客にすぎない人々の錯覚」ですかね)をボコボコに叩いており、それが人の性であるかぎり人間は未来永劫責め苦から逃れられない存在だ、と述べているようです(読んでない)

■ここで「人類が新しいものとして期待できるすべてのものは、常に存在した現実であった」という名言が登場します。おそらくですが、人の思想や考え方、感覚自体が刷新されないかぎり、つまり外からやってくるものがいくら画期的であってもこちらの受容体が古いままであるかぎり、新しいものは得られないということでしょう。

■最後に「流行は社会を変えられない」「人類は解放されない」と革命家らしい言い回しが出ていますが、それはともかく「神話的不安」という言葉の意味が把握しづらいです。さきほどの「劫罰」もちょっとよくわからなかったし。幻燈ショーという場(整備された都市、豪華なパサージュ、自分の世界を作れる部屋、etc)があるかぎり、そしてそこに描き出される幻想に見入っているかぎり、人は救われない、という意味になるのでしょうが、何に対して人類は責め苦を受けていると感じているのか。なにか救われるべき、解放されるべきものがあったのか。こう、世紀末的な重苦しいニュアンスは伝わってくるのですがはっきりとしません。

■ブランキは(ベンヤミンは)何に絶望しており、人類は何から解放されるべきなのか。ここをもやもやさせないことがベンヤミンを読む上で主軸になってくるような気がするので、それを考えつつ読み進めることにします。